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物語りも書評も評論も漫画も全部読んだら感想かく。んひゃー
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なんと悲劇的な…。
授業の課題で読んだんですが、こんなにとことん悲劇的でよいのかしら。

結局自分が、自分が避けてきた思想に縛られていたというエンジェルの描写がうまいなーと思いました。
そしてとにかく骨太。『嵐が丘』のときも思ったけど、名作といわれて語り継がれる物語ってやっぱり骨太なんだ。
だから人々はそれが何なのかを追及したくなる欲求に駆られる。
そしてどんな発想も当てはまってしまうようで、どんな方向からも分析できてしまう。
作家は物語をはじめからそういう風にかこうとは思っていなくて、だからまたすごく奇跡的なんだと思う。そういう物語が生まれるということは。

ということで、以下、レポート書いてて考えたこと書きます。
レポートのテーマは原作と映画の描写の違いと、それについての製作者の意図の分析だったんですが、私は主人公テスに向けられる悲劇性の差に注目しました。

原作ではとことんにすべての矢印がテスだけに向けられている感じで、アレクはえらい物欲と肉欲の人だし、クレアはなんか自己中心的だし、お父さんはあさっての心配ばっかだし、お母さんはテスの心の中なんて気にしてないし、彼女に「しくじった」ことを責める事しかしない。救いとしてあれば、それは農場で生まれた女同士の友情かな。でもそれだってクレアと結婚することでよくわからない方向へ狂ったこともあった。

映画ではこうした人間関係、というか、テスに悲劇を与える役割をもつ一人一人の性格が結構書き換えられているという風に感じました。

たとえばアレクは、そこまでテスに対して好色な視線を向けていないし、あくまで単純に彼女を気に入り、だから彼女の生活、家族を救ってあげようと支援をする。
映画では彼に関するシーンが数箇所カットされていますが、それは彼の性格を書き換えるためには必須だった。
ひとつはアレクの改宗後の姿。映画ではこれを描かずに、彼が再びテスの前に現れたのは母からの手紙がきっかけ、ということになっている。
原作では改宗したアレクがテスに再開したことで、押し込まれていた欲深い本来の性質が、しかもかなり劇的な様子でよみがえり、改宗をなかったことにしてしまう。
もしこのエピソードが使われたら、親切で単純なアレクは表現できない。
もうひとつ。原作で、テスはアレクを殺害した動機を「彼がまたあなた(クレア)のことを侮辱したのよ」みたいに言っているけど映画では「彼を殺したの」としか言わない。これもアレクの性格の書き換えの跡としてとらえられる。

また他に書き換えが行われていると考えられるのがテスの母親ジョーン。
原作では前述のとおりかなり手厳しい対応をとる。まずテスがアレクの元を離れたとき。そしてクレアの元から離れざるをえなかったとき。
しかし映画ではそのシーンが使用されていない。ジョーンははじめの、まだダーバヴィルの名が巻き起こす悲劇よりも前の段階、そして家族が引っ越す場面、クレアがようやくテスを探し始めたとき、しか登場しない。
だから彼女の粗野で乱暴な言動、テスへの仕打ちが浮き彫りにならない。性格の書き換えである。
しかもクレアがテスを探しに訪ねてきたとき、原作ではできるだけ口をきかないように勤めていた彼女が、映画では最後に一言、「もうあの子をそっとしてあげて」という旨を伝える。原作では誰も口にしなかった言葉。いるとしたらテス自身が考えてたことなんじゃないかとも思える。

つまり映画では原作よりも、簡単に言えば優しくなってる人が多いってこと。
じゃあこうすることでどういう効果が出てくるのか。

ひとつは原作と比べて、事が単純ではなくなるということ。
なぜなら原作では、ひどい人間たちからひたすら数々の仕打ちを受けてきたテスが、映画では、優しい人たちに悲劇的な展開を与える。
自分に好意を向け、親切に彼女だけでなく家族まで助けてくれたアレクを殺し
それによって自分を心配して気を遣って、彼女の苦労もよく理解した母親と妹弟たちの今後の人生まで過酷なものとしてしまった。
だから映画は複数の悲劇が重なり合っている。それで物語の悲劇性が高まる。

そして、テスへの救い、死後の救いについてのこと。
原作ではテスはクレアに、気に入りの妹ライザ・ルーの世話を看て、最終的に寄り添って生きてほしいという旨を伝え、そしてクレアはそれを実行する。それがウィントンスターでのテスの処刑の日の描写で明らかになる。
さらに処刑の日のライザ・ルーの描写は彼女の処女性をあらわしていて、しかもその様子がテスと重ねられているんだから、彼女を表現することは、テスが死後、ようやくもとの姿に、ダーバヴィルの名に翻弄される前の心情、姿に戻れたということの暗示として読み取ることができる。

でも映画ではそれがない。テロップでの事実の報告だけ。
しかも、私の勝手な推測だけど、テスが多分人生でもっとも幸福だった、結婚直後をすごしたお屋敷の横にあるのは多分、ウィンチェスターのウエストゲートなのね。ただ、それはその場所がウィンチェスターだということを示すランドマークじゃなくて、彼女の死を暗示する、人生の絶頂において彼女の顛末である「処刑」を暗示する効果を持っているのだと思うのです。

ちなみにハーディーは自身の著作において、実際の地名をもじって利用することが多かったそうで、原作のウィントンスターはまさにウィンチェスター。それは原作での街の描写でも明らかなこと。
そしてわたし、10月に行ったのはウィンチェスター。ウエストゲートも見てきました。だから映画見たとき「あっ!!」と思いました。
ということで映画では、彼女の人生の絶頂では、原作において彼女が処刑される地にある、そして原作でもきちんとそれについての言及がある『西門(ウエストゲート)』をわざと登場させている。

だから、映画では彼女にまっさらなわかりやすい救いを与えていないのですよ。なぜなら彼女も善良な人を苦しめたから。

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ただ、それでは映画で彼女には救済がなかったのか、という点については時間切れで追求できませんでした。これがちょっと悔しい。
映画を何度も見れたらよかったんだろうけどいかんせんこればっかりに時間割いてるわけにもいかず。そんな重い火曜日の課題。

ぶふーおもしろかったー
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